|   
   もともと実家がパン屋でした。小学校から帰ってくると、あんこ煮たりとか、カレーパンのじゃがいもを細かく切ったり、にんじん切ったり、手に火傷しながらあんこ炊いたりやらされてました。そのうち、見よう見まねで、あんぱんを包むようになった。それは自分からやりたくてやっていましたね。まあ、高校生ぐらいの頃は、いちばんなりたくない職業がパン屋ですよね(笑)。朝4時から起きて、睡眠時間5時間で、親父とおふくろが仕事やっているのを見てましたからね。家族団らんの食事なんか経験がないんですよ。パン屋以外だったらなんでもいいと思っていた。
 うちは男ばっかり四人兄弟。長男がパン屋を継いで、次男、三男(リリエンベルグの横溝春雄氏)もケーキの世界に入った。自分もそういうの見ながら、だんだんパン屋も悪くはないかな、と思うようになっていました。
    
 大学出てアパレル業界に行きましたが、親父が倒れちゃって、実家のパン屋を手伝うようになった。そしたら、三男に「おまえ、本当にやるんだったらちゃんと修行しろ」といわれて。吉祥寺のモンパンに入り、数年後、銀座木村家に移りました。すごく新鮮だったんですよ。そのころ「天然酵母」はあまりなかったから、なんでイースト菌を使わないで、酒種であんぱんができるのか興味があった。最初、あんぱんの部署に入れてもらいました。銀座本店の7階で、毎日あんぱんを4000個ぐらい包む。機械で分割された生地に、分割されたあんこを包むだけ。1個何秒もかかんない。すごく早いんですよ。普通は、あんぱんってぴしっと詰めないといけないでしょ。あそこのはちょっとぐらいあんこが見えていても平気なの。絶対に中身が出てこないんですよ。酒種の生地はぐわーっとふくらまないですから。
 
しばらくして、フランスパンの部署に異動になりました。3~4ヶ月経った頃、チーフが倒れた。誰を責任者にしようかって、栄一社長(木村栄一、当時社長)が、帝国ホテルの小林秀雄さんに相談したらしいんですよね。ある日、小林さんから突然電話がかかってきて、「帝国の小林だ」と。電話の前で直立不動ですよ。「はっ、よろしくお願いします!」(笑)。「材料はこれとこれで、これぐらいのミキシングでパン作っとけ」。ハードロール、いわゆる「かつぶし」です。後日、その通り作ったものを、小林さんが店に来て食べて、「横溝でいいんじゃねえか」って話になったらしいです。テストだったんですね。 
 僕がいた頃の銀座界隈のレストランはほとんど銀座木村家のフランスパンを使用して頂いていました。シェ・イノさんとか、隣のレカンさん。レカンさんだけで、プチフランスを200個ぐらい作った。あの頃はバブルだから5万円ぐらいのコースでも満席なんですよね。  銀座って刺激のあるところなんです。晴海でモバックショーがあるときは銀座経由。世界中の人が銀座木村家に寄りますからね。だから、後輩集めて「おまえら、きょうから絶対変なもん作るんじゃねえぞ」みたいなね(笑)。それでなくても、三越の地下にはジョアンさんがあって、後ろにはビゴさんがあって、あとは神戸屋さんもあって。あの頃、銀座にはベーカリーがたくさんあって戦場だった。  木村家で10年やったあとは、スーパーのセントラル工場に転職し、そこでラインのパン作りを経験できました。そのあとは、ある洋菓子チェーンの工場にヘッドハンティングされた。そこでは、ゼロからベーカリー部門のラインを作らせてもらいました。いい経験をさせてもらったと思っています。 ※店舗情報及び商品価格は取材時点(2012年7月)のものです。最新の店舗情報は、別途店舗のHP等でご確認ください。 |